7月24日、作詞家の山川啓介さん(本名 井出隆夫さん)が亡くなられました。ぼくはDAM★ともでも山川さんの作品を歌って公開してきました。「山川啓介」としての作品では、野口五郎さんの「グッド・ラック」、いずみたくシンガーズの「帰らざる日のために」、岩崎宏美さんの「小さな旅」、「井出隆夫」としての作品では、花田ゆういちろうさんの「そよかぜスニーカー」などです。山川さんは職業作詞家を自任されていましたが、作られる歌詞は流行歌のためだけの歌詞だけではなく、一つの詩として言葉を綴っていかれたように感じます。だから、言葉が綺麗で、凛としているというのがぼくの印象でした。

山川さんの訃報に接し、矢沢永吉さんが「盟友が亡くなったんだなあとしみじみ感じました」とコメントを出されました。矢沢さんがこういったコメントを出すのは異例だと思いますが、改めて山川さんのインタビュー記事を読んでいたら、矢沢さんについて語っているところがありました。山川さんはいずみたくさんとの出会いで青春ドラマの主題歌を担当することになり、青い三角定規の「太陽がくれた季節」や中村雅俊さんの「ふれあい」が大ヒットし、職業作詞家の仲間入りをすることができました。しかし、それで「青春歌謡作家」のイメージがついてしまい、苦労していた。そこから抜け出せたきっかけとして、まず「藤田敏雄先生と一緒に訳詞の仕事を手掛けたこと」を挙げています。藤田敏雄さんは、日本の創作ミュージカルの草分け的存在の方で、現在も続く音楽番組「題名のない音楽会」の企画構成をされました。そして、山川さんがジャズドラマーの猪俣毅さんに依頼されて、洋楽曲の訳詞を書いたところ、バックバンドのギタリストだった水谷公生さんが矢沢さんに「こういう詞を書くのがいるよ」と話したら、矢沢さんが会ってみたいということで、山川さんとの出会いが始まったわけです。

矢沢さんはキャロル解散後、ソロシンガーとして活動していましたが、キャロルのイメージを捨て、新たな挑戦を試みていた時期でもありました。当時はニューミュージック全盛期で、シンガーソングライターのスタイルが主流でしたが、矢沢さんは「俺より詞のうまい奴はいくらでもいる。無名でもいいから、詞は俺の思いを伝えてくれる奴に頼みたい」という考えを持っていました。山川さんは、矢沢さんから送られてきたデモテープを聴いて、矢沢さんは英語で仮歌を歌っているんですが、矢沢さんのノリや特徴から「こうしたいんだな」という思いを掴んで、詞を書いたそうです。山川さんは矢沢さんに詞を提供するなかで、これまでの青春ものとは違う、自分らしい詞が書けたことは大きかったと述懐されています。

こうして、1978年3月21日に発売された「時間よとまれ」はミリオンセラーの大ヒットとなり、矢沢さんはソロシンガーとしてもメジャーアーティストに「成りあがり」を果たしました。そして、この「時間よとまれ」のB面に収録されたのが「チャイナタウン」でした。今では多くの人に知られる名曲ですが、山川さんも矢沢さんも、歌謡曲でもニューミュージックでもないところで、大人の男性の生きざまをテーマにして作品を作ろうという2人のシンパシーが化学反応を生んだのかなと思います。山川さんはこれを機に、訳詞はもちろん、歌謡曲もアニメも手掛け、子供番組の歌づくりにも積極的に取り組まれ、ジャンルにとらわれない音楽活動を続けられました。矢沢さんも、山川さんは一緒に自分を押し上げてくれた「盟友」だと思っていたんですね。人生の盟友に出会えたことは、すごく幸せなことではないかと思います。


矢沢永吉・プロモ・チャイナタウン